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日本武尊 |
伝説上の英雄・やまとたけるのみこと〜生没年不詳 |
| 伝・大和時代
東征の折 |
「古事記」「日本書紀」で活躍する伝説の英雄。「古事記」では倭建命と表記される。
モデルになったのは1人ではなく、複数の人物だったという説もあるが、いずれにしろ東国には ゆかりの伝説が多い。景行天皇の皇子で、食事に出てこなくなった双子の兄を輸すように
言われたが、殺してしまう。乱暴を恐れた天皇に、九州に熊曹建兄弟の討伐に命じられ、 その地で日本武尊の名を得た。九州から帰ると東国の征伐に出かけ、帰途には足柄の坂で、
「吾嬬者耶」と言って亡き妻を偲んだ。それが東国を「吾妻」と呼ぶ起源になった。最後は伊吹山の 神の毒気にあたり、三重の能褒野で息絶えた。 |
| 日本武尊が草津を訪れたのは、東国征伐の帰途だと伝えられています。草津周辺の山々や
里を歩くうちに、谷間にもうもうと立ち上る湯煙を見つけました。日本武尊は湯気の上がる 傍らの石に腰を下ろし、湯につかったと言われ、この逸話が日本武尊の草津開湯伝説に
なっています。座った石は後に御座石と名付けられました。 |
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源 頼朝 |
征夷大将軍(鎌倉幕府創立者)・みなもとの よりとも〜1147年-1199年 |
| 建久4年/1193年 |
日本の歴史上初めて幕府を開いた武将。平治元(1159)年、13歳で平治の乱に参加、
武勲をたて官位を得たが、後に敗れて捕らえられ、伊豆に流された。その後20年間は伊豆で 流人として過ごしたが、治承4(1180)年5月の以仁王事件の際、身の危険を感じ機先を制して
平家に対し挙兵した。石橋山の戦いに敗れ安房国に逃亡したが、後に戦況が好転し武士を 統率、9月には鎌倉に入り、10月富士川の戦いで平家を破った。以後、東国に一大勢力を築き、
文治元(1185)年に壇ノ浦で平家を滅亡させ、同5(1189)年には奥州藤原氏を征服して、 全国統一を果たした。鎌倉幕府の運営にあたっては、朝廷との微妙な力関係に才覚を示した。
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| 草津の開湯伝説の一つに、源頼朝に関するものがあります。建久4(1193)年に浅間山の麓で、
四方を取り囲んで獲物を追い込む巻き狩りを行ったとき、草津にも足をのばし、湯を発見したと 伝えられています。この話は、すでに江戸時代の三原野狩関係の記事に記載されています。 |
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木曾義仲 |
武将・きそ よしなか〜1154年-1184年 |
| 久寿2年/1155年 |
平安時代末期の武将。源為義の子、義賢の次男。久寿2年、上野、北武蔵を治めていた義賢は、
源氏一族の内紛から武蔵国大蔵館(埼玉県嵐山町)で討たれたが、義仲は難を逃れ、信濃国木曾で 成長した。治承4(1180)年9月、頼朝にわずかに遅れて挙兵し、平家方の小笠原頼直を越後に
追い払って信濃を治めた。翌年には横田川原(長野市)で越後の城氏を、越前水津(敦賀市)では 平家の追討軍を破って、北陸道をほぼ手中にし、西海の平家、東海の頼朝とともに「天下三分の
形勢」と称された。しかし入京すると後白河法皇と対立し、頼朝の命を受けた源義経・範頼軍との 決戦に敗れ、逃走の途中、栗津(大津市)で戦死した。
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| 草津近辺には木曾義仲にまつわる伝説が二つ残っています。一つは義仲が木曾で育ったのではなく、
六合村(草津温泉隣接)で成長したというもの。六合には世立という集落がありますが、 その名は義仲がここから世に立ったためと言われています。もう一つの伝承は、草津と六合を中心に
義仲の残党が移り住んだという落人伝説です。 |
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長尾為景 |
大名・ながお ためがけ〜生没年不詳 |
| 延徳2年/1490年 |
戦国時代の武将で、影虎(上杉謙信)の父。永正3(1506)年に越後の守護代になり、
翌年には主君の守護上杉房能を滅ぼしたが、自ら守護に就かず従兄弟の 上杉定実を擁立して、実権を握る。同6(1509)年に房能の実兄顕定に攻められて
逃亡するが、翌年には再起して顕定を破り、完全に国政を手中にした。その後は 室町幕府との親交を図りながらも、定実の守護は廃位せず自ら守護代のまま、
事実上の国主として戦国大名への道を進んだ。上条氏や阿賀北の国人、 上田長尾氏による何度かの反為景の動きもあったが、辛うじて封じ込めた後、
子の晴景に地位を譲って、隠居生活に入った。 |
| 越後の戦国大名、長尾為景が草津を訪れたのは、延徳2年(1490)年のことです。
たまたま湯治にきていた大光宗猷禅師という高僧に出会い、大いに感化を受けた と言われています。為景に同席した箕輪城主の長野業尚にいたっては、
榛名山麓に長年寺を開き、禅師を開山として招いたほどでした。 |
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巴 御前 |
女武者(木曾義仲の従者)・ともえ ごぜん〜生没年不詳 |
| 元暦元年/1184年 |
武勇優れた平安末期の美女。木曾(源)義仲の乳母の夫で、中原兼遠
(木曾の豪族)の娘。義仲の従者で愛妾ともされている。治承4(1180)年 に義仲の挙兵に従って、越中国(富山県)礪波山の戦などを経て入京する。元暦元(1184)年1月、
近江栗津の戦では敵の首をねじ捨てるという大活躍を遂げたが、死を覚悟した義仲の命令で 戦場を離れた。中世前期は武家の女性の地位は高く、巴御前は「大力は女性の血筋で伝えられるという
信仰」をもとに造形化された女性。彼女の人生の後半は謎につつまれており、「源平盛衰記」では、 巴がのちに和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生み、越中石黒で出家して死んだという伝説を残している。
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| 元暦元(1184)年、義仲は栗津の戦で31際の生涯を閉じました。巴は義仲軍の残党と共に山奥へ逃れ、
白根山麓にある湯の池のほとりまでとたどりつきました。3月半ばを過ぎた白根の麓。爽やかな高原の 風光は、最愛の義仲の死に傷つき、悲しみにくえる巴の心をやさしく包み癒した、と伝えています。 |
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丹羽長秀 |
大名・にわ ながひで〜1535-1585年 |
| 天正10年/1582年 |
安土桃山時代の武将。尾張国生まれと伝えられ、父の死後、織田信長に仕え、
信長の養女と結婚した。元亀2(1571)年、近江国の佐和山城を落とした攻から 同城主となり、元正元(1573)年には、信長の命により琵琶湖に大型船を造営した。
信長が目指した天下統一の戦にはほとんど参加し各地を転々とした。豊臣秀吉らと 明智光秀を討った後、清州会議で若狭国他を領することになり、坂本城(大津市)に移って
織田家を支えた。賤ヶ岳の戦では豊臣方につき、戦攻によって越前国と 加賀国の半分を与えられたので、北庄(福井市)に移った。その2年後、
同地で没した。 |
| 本能寺の変が起こる数ヶ月前の、天正10(1582)年の3月、長秀は草津を訪れたと
言われております。甲州の天目山の戦で武田勝頼を破った後、堀秀政、多賀新左右衛門らとともに 草津へ向かい、出湯につかって戦の労を癒したとのことです。 |
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堀秀政 |
大名・ほり ひでまさ〜1553-1590年 |
| 天正10年/1582年 |
安土桃山時代の武将。はじめは美濃国の斉藤道三、後に織田信長に
仕えた。天正元(1573)年に越前で起きた一向一揆の平定をはじめ数々の 戦に参加、朱印状の発給に際しては書状を添えるなど、信長の側近として
活躍した。同9(1581)年には近江国の長浜城の城主となり、本能寺の変で 信長が自害した後は、豊臣秀吉の先鋒として山崎の戦に参加した。
つづいて賤ヶ岳、小牧・長久手などの戦を経て、同13(1585)年には丹羽長秀 の後を受けて越前国の北庄に移った。小田原攻めの陣中で病死した。
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| 信長、秀吉と天下人に仕えた秀政が、草津の湯を楽しんだのは天正10(1582)年の3月
だと伝えられています。 甲州・天目山の戦の後、織田家に仕えた丹羽長秀、多賀新左右衛門とともに訪れ、 しばし休養した」という史実が、「将軍家譜」という書物に残されています。 |
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朝日姫 |
徳川家康正室・あさひひめ〜1543-1590年 |
| 天正15年/1587年 |
豊臣秀吉の異父妹。朝日方、駿河御前とも呼ばれる。天正12(1584)年、
小牧・長久手の戦の後、秀吉は上洛要請に応じない徳川家康に、当時、 佐治日向守に嫁いでいた妹、朝日姫を妻として送った。佐治は天下のためと
命令に従ったが、代償は受け取らずに自害(あるいは隠居、定かでない)した。 朝日姫の後も秀吉は家康に人質を送ったため、ついに家康は上洛。
秀吉の臣下となった。朝日姫は政略結婚の犠牲になった人物の代表として、 後世に語り継がれている。 |
| 豊臣一族でもっとも早く草津を赴いたのは、秀吉の異父妹、朝日姫です。
訪問時は、すでに家康の正室となっていました。草津に赴いた3年後の 天正18(1590)年には、聚楽第で亡くなり、そのことから遊山ではなく
湯治のたむに訪れたもの、と推測できます。 |
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近衛龍山 |
公家・このえりゅうざん〜1536-1612年 |
| 天正15年/1587年 |
安土桃山時代の公家。戦国時代の公卿の名門、近衛家の出身で、
右大臣、左大臣、関白等を歴任した。永禄3(1560)年、京都の乱れを 憤り、上杉謙信を頼りに越後へ向かったが、謙信の上洛に失敗。京に
帰った。同11(1568)年になると将軍足利義昭との間に軋轢が 生じ、大阪や丹羽を流浪した。天正3(1575)年にはいったん帰洛するが、島津
義久を頼って薩摩へ向かった。薩摩に滞在し、再び京へ戻り、今度は 織田信長の勅使を務めた。本能寺の変で信長が自害すると、難を
逃れるために出家。乱世の中で流転の人生を送ったが、書や和歌に 才覚を発揮し、当代一流の教養人であった。
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| 天正15(1587)年3月に来草した龍山は、その時の感動を10首の和歌に
残しました。それぞれの和歌は、最初の1文字に「南無薬師十二神」 の名号を据え十首目に「むすふてこの谷かけの出湯こそ、むへも老いせぬ
くすり成けり」と温泉薬師を讃えています。この最後の一首からも、草津温泉が 戦国期、不老長寿の湯として広まっていたことがわかります。巻物は、
草津山光泉寺に所蔵。 |
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豊臣秀次 |
大名・とよとみ ひでつぐ〜1568-1595年 |
| 天正16年/1588年 |
豊臣秀吉の甥。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦では指揮に失敗。
味方に多数の死者を出し、秀吉に叱責された。その後、四国や中国の遠征、 秀吉とともに出陣した九州征伐では戦功著しく、大納言・豊臣秀長、
嫡男の鶴松が没すると、秀吉の養子に。関白職を譲られて豊臣家の 相続も約束された。しかし実権は秀吉が握ったままで、文禄2(1593)年、
嫡男・秀頼の誕生に、動揺。ついには乱行の果てに謀叛を企てたと 噂されて、切腹に追い込まれた。養子、側室30数人も京都の三条河原で
斬られ、悲劇の人生の幕を閉じた。 |
| 秀次が草津を訪れたのは、天正16(1588)年の九州征伐の翌年です。
秀次の来草を聞きつけた小諸城址の依田康国が、 わざわざ小諸から草津に出向き、特設の茶店を設けて秀次を接待しました。
この史実は、康国の事暦を記した「寛政重修諸家譜」という 文書に伝えられています。 |
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大谷吉継 |
大名・おおたに よしつぐ〜1559-1600年 |
| 文禄3年/1594年 |
安土桃山時代の武将。その出身は豊後国とも近江国とも言われ
定かではない。はじめ豊臣秀吉に小姓として仕え、次第に頭角を 現した。天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦で戦功を上げ、越前国敦賀城の
五万石の大名になった。その後も小田原攻めと、奥州の平定に活躍し、 渡海して明軍との和平交渉にも臨んだ。秀吉の死後は、徳川家康の
天下統一に協力する姿勢を示したが、旧友石田三成の「打倒・家康」という 固い意志を知り、三成に同調した。敦賀で家康方の前田利長の軍を
破ってから関ヶ原に向かい、善戦したが、小早川秀秋の軍に 攻められて自害した。 |
| 吉継が、草津に訪れたのは、文禄3(1594)年のこと。自身が上杉景勝の老臣に
宛てた書面で確認できます。一説では、吉継はハンセン病患者であったと 伝えられており、訪問の目的は湯治にあったとか。その史実からも、
当時から「草津の湯は病に効く」ということが通説と なっていたことがわかります。 |
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前田利家 |
大名・まえだ としいえ〜1538-1599年 |
| 慶長3年/1598年 |
いわゆる「加賀百万国」の礎を築き、金沢繁栄の祖となった武将。
尾張国に生まれ、14歳で信長の近習、19歳の時、顔に矢が刺さった まま敵をやりで倒したという逸話も。秀吉とは武家屋敷住まいの頃から
親交が深く、天正9(1581)年、能登国を拝領し国持大名となった。本能寺の 変の後、対立した豊臣秀吉と柴田勝家とは親密だったが、勝家に加勢し
参戦した賤ヶ岳の戦では、途中で秀吉に降伏。加賀国や越中国の 一部を手中に収めて加賀藩の原形をつくり、三女は秀吉の側室、
四女は養女になった。五大老の1人として秀吉政権を支え、 秀吉の次男秀頼の守り役にもなったが、秀吉没後ぼ翌年、
大阪で亡くなった。 |
| 利家が草津で当時をした事実は、戦前までは歴史の中に埋もれていました。
慶長3(1598)年、隠居して身軽になった利家は、健康を回復するために、 天下の名湯・草津へ向かったのです。その一行には、謡曲師や楽師も
含まれており、盛大な来草となりました。「加賀百万石」といわれた前田家の 経済力を伝えるエピソートです。
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