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草津温泉浪漫
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草津温泉の歴史

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エルゥイン
・ホン・ベルツ
医師・Wrwin. Von.Baelz〜1849年〜1913年

明治11年/1878

 明治政府の”お雇い外国人”の一人として来日したドイツ人医師。 ドイツの田舎町ビーティハイムに生まれ、チュービンゲン大学とライプチヒ大学で 医学を学んだ。臨床的に体温計を初めて使ったウンデルリッヒの内科学教室に 所属し、明治9(1876)年、ベルリンで駐独公使・青木周蔵と 生理学兼内科学の”お雇い教師”の契約を結ぶ。同年6月、東京医学校 (東京大学医学部)に着任。日本の医学教育、医療の西洋化に大きな役割を 果たした。再三の契約更新を行い、29年間、日本に滞在したが、日本人教授が 彼を疎外するようになったので帰国を決意。ドイツに戻ってからはシュツットガルトで 暮らし、人類学界で活躍した。

 ベルツ博士は、近代医学の父といわれています。草津温泉の特異な泉質、時間湯、 美しい自然に魅せられ、度々来草し、優れた湯治効果を研究。効能ゆたかな kusastsuの名を国内外に広めました。「土地を購入して理想的な温泉郷を形成しよう」 と思い描いていたことからも、その執心ぶりがうかがえます。西の河原公園には、 ベルツの功績を讃えた碑が建てられています。平成12年、春には、新たに道の駅に ベルツ記念館が建設されました。ベルツ功績の 軌跡を知ることができます。


ベルツ・花 ベルツ夫人・Hana Baelz〜1864年〜1937年

昭和10年/1935

 ベルツ博士の妻。旧姓は荒井はつ。ベルツとの結婚年は定かではないが、 当時コレラが流行り、花が「防疫に奔走する夫を助け、細やかな心を配って 励ましていた」という記録から、明治20年前後かと思われる。新婚当初、 ベルツ家には西洋人が集まり、活発な日本研究が交わされたが、彼らは花を 「明朗闊達」「しとやかな立ち振る舞い」の日本女性と称した。また、日本文化、 美術に造詣が深く、ベルツの多彩なコレクションは、花の協力に拠る。ベルツの 帰国に伴いドイツに渡ったが、ベルツ没後は愛息・徳之助を残し単身帰国。 昭和12(1937)年、亡き夫ゆかりの東京帝国大学付属病院で死去。 シュツットガルトのベルツ家の墓に永眠。

 花夫人が初めて草津を訪れたのは72歳の時。亡き夫の記念碑の 除幕式に参加するためでした。不思議なことに、ベルツ博士は 何度も草津を訪れたにもかかわらず、花夫人を連れてきたことはなかったののです。 彼女にとっては、それが最初で最後の草津になりました。


ジュリウス・スクリバ 医師(ドイツ人外科医)・julius.kari.Scriba〜1848年〜1905年

明治24年/1891

 ドイツ人医師。ハイデルベルク大学卒業後、陸軍軍医に。明治14(1881)年、 ”お雇い”外科学教師として明治政府に招かれ、日本の近代外科、麻酔学の 基礎づくりに貢献。眼科学、裁判医学も講じた。また、日本薬局法の制定にも あたり、大津事件、濃尾大地震の際には、現地に飛んで医療活動に従事した。 明治34(1901)年に約20年間在任した東京大学を退官すると、聖路加病院の 外科主任となった。彼の名声は、日本だけでなく、東南アジア各国にも 届いたほど。植物学に造詣が深く、日本の美術品にも関心を寄せた。

 スクリバ博士は、ベルツ博士の東京大学時代での同僚で、草津を訪れたのも、 ベルツの案内によるものでした。二人は、東京大学最後の”お雇い教師”であった ことから、親交が深かったようです。余談ですが、スクリバ博士は日本で最初に シュパード犬を飼った人物でもあります。


エドムンド・ナウマン 地質学者・Edmun nauman〜1854年〜1927年

明治15年/1882

 ドイツ人地質学者。マイセンに生まれ、ミュンヘン大学で地質学を学んだ。 バイエルン鉱山局に就職した後、明治8(1875)年に来日し、東京大学初代の 地質学教授となった。その後、政府に提言して内務省地理局に地質課を 新設させ、勤務。日本全土の地質学調査に専念。最著名な成果として 挙げられるのは、「本州中部を横断するフォッサ・マグナの発見」と、 知見を土台に、「日本列島の構造の生成に関する地質学仮説」を立てたこと。 地質調査の傍ら、化石の発掘、調査も行い、小豆島などから出土した 旧象化石には、彼の功績を称え「ナウマン象」と名付けられた。 明治18(1885)年、ドイツに帰国。

 「ナウマン象」の名で知られるナウマン教授ですが、本業は地質学者。 来草の目当ても、温泉より、やはり白根火山の地質のようでした。 現地で行った調査は、『日本地質の探究』という論文の中で報告され、 その年、実際に起こった蒸気噴火の原因について、見解が示されています。 また、明治15(1882)年、草津白根山火口付近の正確な測量図を 残しました。


A.E.ノルデンショルド 探検家・Adolf.Erik.NordenKiold〜1832年〜1901年

明治12年/1879

 フィンランド出身の探検家。鉱物学者、古地図研究家でもある。 祖国のロシア的体制を批判したことから公職追放に遭い、 隣国スウェーデンへ。安政5(1858)年から死去までストックホルム国立 自然史博物館教授を務めた。彼の名を世界的に知らしめたのは、 明治11〜13(1878〜80)年、政府の探検船「ヴェガ号」に乗り込み、 北極海の氷洋横断を敢行し成功させたこと。探検の様子は 『ヴェガ号航海記』に収録。帰国途中の明治12(1879)年、日本に2ヶ月ほど 滞在し、書籍、資料を収集。生涯かけて幾度の探検を試みる傍ら、 和書1,082種、西洋古地図約2万4,000点を集め、 それぞれストックホルム王立図書館、ヘルシンキ大学図書館に 所蔵されている。

 ノルデンショルド教授が草津を訪れた時の様子は、名著『ヴェガ航海記』の中の 「日本印象記」の一部に、「草津温泉印象記」として「至極心地よかった」と 親しげに綴られています。また、温泉街を見回すとすぐに「この近辺の岩はみな 溶岩又は火山性凝灰岩で・・」と的確な分析を下しているのは、 著名な探検家ならでは。旅行中に「日本の馬は鞍が高すぎたので 移動には駕籠も使った」という苦労話も伝えられています。


松浦武四郎 探検家・まつうら たけしろう〜1818年〜1888年

明治19年/1886

 江戸末期の蝦夷地(アイヌ地方)の探検家 伊勢国須川村(現・三重県一志郡三雲町)の郷土の四男に生まれ、16歳の 時出奔。全国を遊歴して文人、勤王志士と交わった。日本初の詳細な 蝦夷地誌である『蝦夷日誌』は、弘化2(1845)〜安政5(1858)年まで 6回に渡る踏査によりまとめられた。全155巻に上り、幕府にも呈上。日誌の 中では、アイヌ民族の苛酷な現状が「明日のご開拓より今日のアイヌの命を」と 切々に訴えている。明治2(1869)年、明治政府から開拓判官に任じられ、 北海道および国郡名の名付け親としても知られている。また、「蝦夷日誌」 の摘妙本ともいうべき『蝦夷紀行』22巻も刊行した。

 武四郎が来草したのは、判官職を辞した後のこと。『松浦武四郎紀行集(上)』には、 明治初期の草津が「頗る繁華の地」「日本無双と云うも誣言うならず」と 記されています。武四郎は、秋の風景美に惹かれ、その時の心境を「谷ごし昨日 見置し紅葉に今日の朝戸出いそがれにけり」という歌に残しています。 また蝦夷を探検した彼が草津を「土地頗る風烈しく夜寒し」と評しているのは、 興味深いエピゾード。谷沢川上流にある高野長英「毒水の碑」を 松浦武四郎が再建し、そのスケッチも残しています。


コンウォール・リー 社会奉仕家・Cornwall.Legh〜1857年〜1941年

大正4年/1915

 社会奉仕家、運動家。英国カンタベリー生まれ。名家に育ち、熱心に キリスト教を信仰。母親を失い、相続が決まった巨額の財産を「自分の余生」 と「人類のため」に使うことを誓う。初来日は明治41(1908)年。大正4(1915)年に、 草津に訪れ、湯之沢を視察。翌年、同地にらい病患者のための聖バルナバ教会を 建設。自身の信仰の普及・伝導を行う。さらに聖バルナバ医院を開設し、 治療・介護に努めた。衣食住は節約し、社会奉仕活動に従事。女史の功績は 高く評価され、昭和3(1928)年に藍綬褒章、昭和14(1939)年には勲六等瑞宝章を 受賞。喜寿の後、一旦帰国。兵庫県明石市で静養の末、永眠。

 前述のように、リー女史は、草津の地で多大な足跡を残しました。精力的な 女史は、来草早々、雪解け道を歩いて、患者の家を訪問。汚れ物を洗ってあげたり、 花を飾ったり、愛情を持って活動を進めたといいます。夏は湯畑付近で 週に一度説教を行い、普及に努めました。遺言により、遺骨は草津・聖バルナバ 納骨堂に安置されています。


大槻文彦 国語学者・おおつき ふみひこ〜1847年〜1928年

明治12年/1879

 国語学者。仙台藩の儒者・大槻磐渓を父に持ち、幼い頃から漢学を亨受。 後に大学南校、三叉学者に学んだ。明治5(1872)年、文部省に出仕し、 英和対訳辞書を編集。国語調査委員会主査委員、臨時仮名遺調査委員会 などを歴任し、明治44(1911)年、帝国学士員会員となった。彼の最大の業績 は、国語辞典『言海』の編集。50音列に配列し直し、文法的解説とともに 用例を挙げたことは画期的であり、のちの国語辞典の依拠するところとなった (没後刊行の『大言海』は、これを増補したもの)。代表著書に、江戸以来の国学の 流と西洋文典の折衷を研究した『広日本文典』、及びその解説書 『広日本文典明記』など。

 文彦は来草の様子を、著書『復軒旅日記』中に収録。博物学を専攻していた田中 芳男を旅の友にして、日向見から入山村和光原を抜け草津に入りました。 「帰りに暮坂峠を越え、伊香保温泉へ向かう」と 文中には記されています。


田山花袋 小説家・たやま かたい〜1871年〜1930年

明治26年/1893

 群馬県出身の明治・大正時代を代表する小説家。父の他界後、書店の 小僧などを経て、桂園派歌人・松浦辰男に入門。『文学界』や『国民之友』 に詩や小説を寄稿し、国木田独歩や柳田国男らの合同詩集『抒情詩』にも 参加する。尾崎紅葉、江見水蔭を尋ね、前期自然主義の気流の中で、 機関誌『我楽多文庫』でも名高い文学結社「硯友社」に入門。悲恋物語を 綴り、『重右衛門の最後』を発表して注目を集めた。『露骨なる描写』以降、 自然主義の推進者となり『蒲団』で文壇の地位を確立する一方、 『文章世界』の主筆として論陣を張った。明治42(1909)年に刊行された『 田舎教師』は、不朽の名作ともいわれている。

 明治の文豪・花袋は、草津へ3度足を運んでいます。初めての 来草は、明治26(1893)年。処女作『瓜畑』について 『落花村』を書き、これからという時期でした。明治30(1897)年、 博文館より出版された雑誌「太陽」8月号に「草津嶺を踰ゆるの記」 を掲載。流行作家となっていた3度目の来草のことは、 洋画家・中澤弘光との共著『温泉周遊』に収められています。


徳富蘇峰 歴史家・とくとみ そほう〜1863年〜1957年

大正14年/1925

 「明治青年の指導者」と呼ばれたジャーナリスト、歴史家。熊本県生まれ。 早くからキリスト教に入信し、明治15(1882)年、私塾大江義塾を開設。 自由主義を掲げた。明治19(1886)年に発表した『将来之日本』で 一躍文名を高める。翌年には、民友社を設立。創刊した雑誌『国民之友』 は、清新な油諭旨を展開し、青年層に圧倒的な支持を得た。また 『国民新聞』を刊行し当時の言論をリードする存在に。しかし、日清戦争前後から 「挙国一致」と「軍備拡充」を唱え、藩閥政府反対の立場を方向転換。 山県・桂内閣のブレーンとして活躍した。その後、さらに思想を発展させ、生涯、 言論界の雄として君臨した。

 蘇峰は、著作『毛信遊記』の中に、草津・軽井沢を訪れた時の様子を、 9章に分けて著しています。この内、草津のことに触れているのは 3〜7章。綿密で細かい描写は、ジャーナリストならでは。 本を繙くと、蘇峰が訪れた夏の草津の風情が、目に浮かぶように記されています。


志賀直哉 小説家・しが なおや〜1883年〜1971年

明治37年/1904

 強烈な自我意識と潔癖な感性に支えられた精緻なリアリズム文学を 確立した白樺派の代表的作家。宮城県出身。気性の激しい祖母に育てられた ことが、直哉の人間形成と父との不和に大きく影響する。東京帝国大学を 退学し、武者小路実篤らと『白樺』を創刊。父との対立を『大津順吉』『和解』 に描く一方、『城の崎にて』『小僧の神様』『焚火』などの名作短編を生む。 夏目漱石の依頼で朝日新聞に連載予定の『時任謙作』が書けず、 それは後に『暗夜行路』という近代日本屈指の長編に結実した。”小説の神様” と称され、芥川龍之介の賛仰や、太宰治の反発など文壇に与えた影響が 非常に強く、多くの文学者の指標ともなった。

 直哉は、草津へ3回訪れています。最初は、学生時代の貧乏旅行。 二度目は文名も売れ出した大正11年でしたが、直哉の名を知らなかった 番頭に「お職業はやはり農で?」と尋ねられ、つい、「そうです」と 答えてしまったと『草津温泉』に著しています。3度目は戦前。訪れる都度、 交流を深めたといいます。また、名作『暗夜行路』の後半は 草津の宿で書かれたことが分かっています。


富田常雄 小説家・とみた つねお〜1904年〜1967年

大正8年/1919

 『姿三四郎』など柔道物、関化物に独特な作風を示した小説家。 筆名は伊皿恒夫。東京生まれ。父は講道館四天王のひとりに数えられた 常次郎で、常雄本人も柔道五段の腕前。昭和3(1928)年に今日出海、 舟橋誠一、村山知義らの劇団「心座」の文芸部に参加。昭和17(1942)年に 発表した「姿三四郎」は、翌年、黒沢明の監督により映画化される。 昭和24(1949)年に『面』『刺青』の2作品で戦後初めての題21回直木賞を 受賞、たちまち流行作家となる。「東京新聞」に連載された『弁慶』は、 大評判になり、多くの読者を沸かせた。作品は、他に『熊谷次郎』『柔』など。

 黒沢明監督作品としても有名な『姿三四郎』の著者・富田常雄は、 昭和38(1963)年に発表した『湯けむり』の小説の中で主人公が 草津へ湯治に来たことを次のように書いています。 「宿の2階の手すりから湯畑の白い湯けむりを眺めた。 『おっそろしく湯が余ってやがるな江戸へ持ってたら湯屋が定めし助かるだろう』と。」


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