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近衛文麿 |
総理大臣・このえ ふみまろ〜1891年〜1945年 |
| 昭和11年/1936 |
昭和初期に3度組閣した首相。東京都出身。藤原家の直系で摂政関白を出す
公卿最高の家柄・近衛家の長男。指揮者・作曲家でもある近衛秀麿の実兄。 西園寺公望の随員としてベルサイユ講話会議に出席したのち貴族院議長と
なる。第1次組閣時は日中戦争の拡大・長期化を防ぎ得ず、近衛声明で和平 交渉を打ち切る。汪兆銘の重慶脱出を機に退陣。第2次組閣時は、大政翼賛会
を創立、日独伊三国同盟を締結。第3次組閣時、衝突回避の日米交渉に 失敗して退陣。太平洋戦争敗戦後、東久邇内閣の国務相として憲法改正案の
起草にあたったが、戦犯容疑者の指定を受け、拘引の直前に服毒自殺。 |
| 近衛文麿元首相の来草は「昭和11年西の河原太田亥十二氏(財界関係者)の
別荘に来草」と草津町史に記されています。 |
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田中角栄 |
総理大臣・たなか かくえい〜1918年〜1993年 |
| 昭和42年/1967 |
新潟県出身。「コンピューター付きブルドーザー」「今太閣」などの渾名
数多い政治家。貧困の中で少年時代を過ごしたが、持ち前の活動力と 明晰な頭脳を活かし、若干29歳で代議士に。以来、16回連続当選を果たす。
昭和32(1957)年には、39歳の若さで初入閣。池田、佐藤両内閣下では、 蔵相に就任。驚くほどの才腕を発揮し、党内での地位を固めた。昭和45(1970)
年、田中内閣が発足。就任早々、北京を劇的訪問。日中国交を回復させた。 「決断と実行」を信念に、迅速かつ大胆な政治手腕は国民的指示を得、
「庶民派宰相」と称された。 |
| 田中元首相が来草したのは、郷土出身の小渕恵三衆議院議員(のちに第84代
総理大臣)が二期目の当選を目指していた昭和42(1967)年のこと。 トレードマークの帽子をかぶり、会場を埋めた聴衆を前に大熱弁。小渕候補は、
選挙を見事勝ち抜きました。 |
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佐藤栄作 |
総理大臣・さとう えいさく〜1901年〜1975年 |
| 昭和22年/1947 |
池田内閣を後継し、沖縄返還を成功させた総理大臣。山口県出身。
長兄・市郎は海軍中尉、次兄・岸信介は首相。大正13(1924)年 東大卒後、鉄道省に入り、鉄道局や運輸事務次官に就任。昭和23
(1948)年に民主自由党入党。第2次吉田内閣で官房長官に抜擢され、 吉田内閣の各省大臣を歴任する。佐藤栄作の最大の事業は、
「沖縄返還」であった。首相在任中、ジョンソン、ニクソン両米大統領との 交渉に勤しみ、昭和47(1972)年5月15日、沖縄返還が実現。また、
昭和49(1974)年12月、首相在任中の非核3原則などの政策が評価され、 ノーベル平和賞を受賞。 |
| 戦後復興の槌音響く昭和22(1947)年、後の総理大臣・佐藤栄作が草津を
訪れています。小渕光平(小渕恵三元首相の実父)氏の案内で、群馬鉱山 草津事務所を視察しました。また、佐藤元首相は同年2月、運輸事務次官に
就任しており、終戦間近に開通した旧国鉄長野原線(現・JR吾妻線)を 視察したことも推測されます。 |
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福田赳夫 |
総理大臣・ふくだ たけお〜1905年〜1995年 |
| 昭和54年/1979 |
群馬県群馬町生まれ。東京大学卒業後、大蔵省へ 主計局長を最後に退職。昭和27(1952)年衆議院議員に
初当選。保守合同後の自民党では、「党風刷新連盟」を組織。池田内閣の 経済路線を批判し、党改革を進めた。佐藤内閣後のプリンスと目されるが、
昭和47(1972)年の総裁選で田中角栄に惨敗。田中内閣下では蔵相に就任。 石油危機後の「狂乱物価」経済の修正に全力を尽くす。昭和51(1976)年、
首相に就任。自らを「内閣掃除大臣」と称し、歴代未解決案件を処理。 日中平和友好条約の締結など、外交手腕も高く評価された。退陣後は、
国際平和に貢献。昭和56(1981)年、国連平和賞を受賞した。 |
| 福田元首相の初来草は、政界入りを目指していた昭和27(1952)年の夏のこと。
講演会を開催し、自身の決意を熱く語りました。その後も、国立療養所の慰問を 始め、忙しい合間を縫って草津を訪れています。特に、昭和63(1988)年、
政治生活35周年祝賀会が開かれた折りには、家族をともなって来草。 温泉でゆったりとしたひとときを過ごしました。
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入沢達吉 |
医師(内科学者)・いりさわ たつきち〜1865〜1938年 |
| 昭和10年/1935 |
新潟県生まれの内科学者。父は藩医。東大卒業後、ベルツ博士の助手となり
内科学を習得。ドイツへ留学後、宮内省侍医局勤務、足尾銅山鉱毒事件には 医院として参画した。明治28(1895)年、東大助教授となり、後、ベルツ博士退職
を受け教授へ。入沢内科を創始・主宰し、日本内科学の確立に貢献した。脚気に 関連する広範な研究や十二指腸虫の感染経路の追究、さらにレントゲン診断学応用、
血色素測定法など内科学全般の研究に励む。東大退職後は侍医頭を務めたほか、 同仁会(中国各地に病院を設立した団体)副会長として訪中、中国の医療向上に
努めた。日独協会理事長にも就任、国際交流に尽くす。 |
| ベルツの記念碑は、愛弟子ともいえる入沢博士の多大な尽力があって
建立されました。昭和10(1935)年、朝日新聞「ベルツ先生と草津」と題した寄稿記事の中で、 入沢博士は「そいつ(=草津の人情風俗)が好きで好きでわざわざ東京から
歩いたりガタ馬車に揺られたりして通われた」ベルツの草津への心酔ぶりを、 親しみを込めて語っています。 |
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石橋長英 |
医師(小児科医)・いしばし ちょうえい〜1893〜1980年 |
| 昭和55年/1980 |
日本国際医学協会会長や獨協大学名誉学長を務めた医学博士で、専門は
小児科学。千葉県九十九里出身。大正7(1918)年、東京帝大医科大卒後、 日本医学専門学校教授、同附属病院小児科部長を経て、昭和2(1927)年に
小児科病院を開業する。昭和6(1931)年東京農大教授、昭和23(1948)年には 獨協医科大学長に就任、後、名誉学長に。国際医学協会や日独医学協会、
日本医学協会を主宰。ドイツ医学に傾倒し、ドイツ医学界との交流に熱心に 取り組む。その功績が認められて西ドイツ大功労十字星章など数々の
功労賞を授与されている。著書は「エルウィン・フォン・ベルツ」「母子栄養」 「乳児の下痢」など多数。 |
| 草津町は、昭和37(1962)年にベルツ博士の誕生地・ドイツ国ビーティヒハイム・
ビッシンゲン市と姉妹都市を締結。石橋博士は、この成立と両都市間の交流に 力を注ぎました。草津町は、昭和55(1980)年に町制施工80周年・ベルツ博士
来草100周年記念事業を挙行、石橋博士の労を讃えて「草津ベルツ碑」を 贈りました。 |
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阿部真之介 |
評論家・あべ しんのすけ〜1884〜1964年 |
| 昭和8年/1933 |
ジャーナリスト、評論家。明治41(1908)年に東大社会科卒後、
満州日々新聞社に。明治44(1911)年に退社し、東京日々新聞社へ。 昭和元(1926)年、当時無名の吉川英治作品「鳴門秘帖」の連載に踏み切り、
好評を得る。待命休職となった昭和5(1930)年、「中央公論」や「サンデー 毎日」に人物評論などを掲載。各紙に寄稿し評論家としての地位を
上げた。戦後も政治家をメインに人物評論を執筆する一方、政府委員、 横綱審議委員会などを歴任。昭和35(1960)年にNHK会長に就任、
NHK開放や経営近代化・合理化に努力した。埼玉県熊谷市生まれ。 |
| 終戦直後の昭和20(1945)年秋、前橋市に夫人と疎開中だった真之介は、
草津文化協会から依頼されました。接待を担当していた事務員が 差し出した揮毫帖に「桑の枝撓はめて吹くや赤城颪 日溜まりや桑の
枯葉も吹きためし」と一句詠んだといいます。また、草津文化協会の 機関誌(創刊号)には「草津文協の使命」を寄稿しています。
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小林秀雄 |
評論家・こばやし ひでお〜1902〜1983年 |
| 昭和12年/1937 |
東京都生まれ。旧制一高時代に、仏詩人ランボオにふれ、文学への
関心を深める。東大仏文科同期の三好達治、今日出海、また旧友の 富永太郎らと文学交遊。特に大正14(1925)年、中原中也と中原の
恋人であった長谷川泰子(後に秀雄と同棲)との出会い、そして破局は、 彼の文学観に大きな成熟をもたらす。昭和4(1929)年頃から本格的な
文芸評を開始。当時、文壇を席巻していたプロレラリア文学の「概念に よる欺瞞」を衝き、評論家の地位を確立。評論というジャンルを創造の城に
高めた。大戦下で執筆した『無常といふ事』『西行』などのエッセーでは、 日本古典論の範型を提示。戦後、精神のドラマを描いた『モオツアルト』
『ゴッホの手紙』ほか、大作『本居宣長』を発表。国民的知性として尊敬を 集めた。昭和42(1967)年、文化勲章受章。
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| 小林秀雄の来草は、昭和12(1937)年2月、林芙美子ら文壇の仲間とともに
宿をとり、真冬のスキーを楽しんだことが、芙美子の記録に残されています。 |
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賀川豊彦 |
社会運動家(キリスト教信者)・かがわ とよひこ〜1888〜1960年 |
| 昭和2年/1927 |
明治末から昭和にかけて活躍した社会運動家。不遇な家庭環境t
病身の苦難の中で、キリスト教への親信仰を強める。神戸神学校在学中から、 神戸のスラム街に住み、伝導と救済活動に努めた。大正9(1920)年、
活動を綴った小説『死線を越えて』を発表、ベストセラーに。米プリンストン大学に 留学の際、労働運動にふれ、帰国後友愛会に参加。労働争議を指導し、
労働者に強い影響力を持った。大正11(1922)年、杉山元治郎とともに 日本農民組合を結成。大正15(1926)年の労働農民党の結成で中央委員に。
同年、「神の国運動」を開始し、活動の中心は宗教へ。第二次世界大戦後は、 伝道活動を継続する一方、日本社会党結成への関与、また世界連邦運動を
推進するほか、生涯を社会運動の中に過ごした。 |
| 豊彦は来草の折り、湯之沢の三上千代女史宅に3ヶ月ほど滞在しました。
千代女史は、草津にらい病患者の部落があるにもかかわらず、医師も 看護婦もいない事実を知り、コンウォール・リー女史の事業を手伝った看護婦。
国立療養所栗生楽泉園を視察した豊彦は、後に日本救らい協会理事となり、 らい病対策に努めました。 |
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ブルーノ・タウト |
建築家・Bruno.Taut〜1880〜1938年 |
| 昭和9年/1934 |
ドイツ人建築家。ナチス政権台頭を恐れ、昭和8(1933)年、訪日。昭和11(1936)年まで
の滞日中、桂離宮ほか日本古来の建築物を絶賛。日本建築の魅力を海外に広く伝える。 建築学校を卒業後、ベルリンの独工作連盟博に提出した『ガラス・ハウス』を設計、脚光を
浴びる。表現主義建築運動を代表する建築家として活躍。第1次世界大戦後、ガラス建築 の幻想的なイメージに満ちた『アルプス建築』など一連の本で国際的にも有名に。
1920年代後半から行われたベルリン郊外の集合住宅の設計が代表的な仕事。各国の大学で 教鞭をふるったが、昭和13(1938)年、病死。建築物だけでなく、日本の美術にも強く惹かれ、
その見聞を『日本美の再発見』などに著す。 |
| タウトは、滞日中、工芸美術を指導していた高崎市の、井上房一郎氏の案内で、
草津へ訪れました。旅館が並ぶ温泉街を見たタウトの興味は、建物に注がれます。 百年前に建てられた建物を建築家の視点で観察し「全体の雨戸を適宣に分割収容
する仕方は、実に簡単でしかも要を得た解決方法である」と分析しています。 |
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岸田国士 |
劇作家・きしだ くにお〜1890〜1954年 |
| 昭和20年/1945 |
東京都出身の劇作家。陸軍幼年学校、士官学校を経て軍務に就くが、文学に熱中
するあまり休職願を提出し、大正5(1916)年東大仏文科に入学。大正8(1919)年に 渡仏して演劇の勉強を積む。父の死を機に帰国。大正13(1924)年、処女戯曲
『古い玩具』『チロルの秋』を発表する。フランス風の繊細さ、院影に富む会話に努め、 戯曲の文学制性を重視。新しい演劇活動の支柱となり、新劇主流の左翼演劇に
対抗した。戯曲は60編を超え、秀作が多い。昭和12(1937)年、文学座創立に参加。 新聞小説の「暖流」をはじめ、小説家としても健筆をふるった。
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| 昭和17(1942)年、大政翼賛会の文化部長を辞し、北軽井沢の別荘に移った国士は、
その地で終戦を迎えます。以前から草津への憧れは強く、「草津へ行ってみたい。 仕事も考えている」と知人に話していました。そして昭和20(1945)年に来草し、
ようやく夢が実現しました。 |
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斉藤茂吉 |
歌人・さいとう もちき〜1882〜1953年 |
| 昭和8年/1933 |
山形県生まれ、高等小学校卒後に上京。親戚の開業医宅に
身を寄せ、開成中学へ。在学中の明治38(1905)年、正岡子規 「竹の里歌」に感動して作歌に熱中する。翌年、伊藤左千夫に師事。
東京帝大医科を卒業後、巣鴨病院に勤務。短歌を「生のあらはれ」 とした茂吉独自の声明主義は、大正2(1913)年の処女歌集「赤光」
に満ちている。その後ウィーン、ミュンヘンへ留学。帰国後、島木赤彦 死去にともない『アララギ』の編集責任者に。以降、歌集『ともしび』
『寒雲』など佳編を発表し、大著『柿本人麿』で学士院賞受賞。 昭和26(1951)年、文化勲章受章。 |
| 茂吉は来草の折り、以前から続く腰痛を伴いながらも、温泉に浸かったり、
散歩に興じたりしました。西の河原、中ほどに建てられた碑には「いづこにも 湯が噴きいでて流れいる 谷間を行けば身はあたたかし」という歌が
刻まれています。歌集『白桃』に、滞在の時に詠んだ短歌を選録。 「草津小吟」と題し、草津、そしてベルツへの思いを詠っています。
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与謝野鉄幹(寛) |
歌人・よさの てっかん(ひろし)〜1873〜1935年 |
| 昭和9年/1934 |
明治大正時代の歌人で『明星』主催者。明治25(1892)年に上京し、
落合直文に師事。翌年『浅香社』結成に参加する。明治27(1894)年には、 二六新報に「亡国の音」を連載し、旧派の短歌を批判して注目を浴びる。
明治32(1899)年『新詩社』を創立、翌年には『明星』創刊。明治34(1901)年、 昌子と結婚。後進指導に精を出す一方で詩歌集や歌論集を出版する。
雄弁で男性的な歌を詠む鉄幹は、短歌の革新を目指し、浪漫主義的 運動展開の中心人物となった。明治44(1911)年には渡欧してパリに
滞在。帰国後、大正8(1919)年から昭和7(1932)年まで慶大教授となり、 国文学や国文学史を講じた。
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| 鉄幹は、昌子夫人とともに来草。町内の旅館に滞在しました。二人の宿泊先を知り、
会見を申し込んだ人の記憶によれば、鉄幹は、世俗のすべてをなめつくされていたのか、 まろやかな笑顔でむかえ、すぐに筆をとって妻とともに短冊に歌を書いてくれたそうです。
また、鉄幹は「浅間より白根にわたる高原の草津秋なり霧に陽のぼる」という 歌を残しています。 |
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与謝野晶子 |
歌人・よさの あきこ〜1878〜1942年 |
| 昭和9年/1934 |
明治大正時代の歌人、評論家。明治33(1900)年から与謝野鉄幹が創立した
新詩社の社友となり「明星」に短歌を掲載。明治34(1901)年、鉄幹を結婚する。 同年に、歌集『みだれ髪』を刊行。激しい恋心と若い女の官能という内容に
世間は一驚した。その後も歌集『小扇』や、ライバル・山川登美子らの 合著『恋衣』などで耽美的想像力を発揮。明治巻きから大正には、平塚らいてうや
山川菊栄らと母性保護について論争。婦人解放論、政治、教育、社会といった 幅広い分野に関する評価でも、昌子は、鋭い洞察、豊かな見識の持ち主である
ことを証明した。 |
| 昌子の歌集『山のしづく』には、鉄幹と訪れた時の草津の思いでの歌が
数多く収録されています。当時、昌子の短歌は夫・鉄幹を凌ぐほど秀逸と 言われ、同歌集でも「靄白く立ちて硫黄の槌なら廣場の前の山の湯の宿」など、
草津の温泉情緒、自然の風景を美しい言葉で綴っています。 |
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土屋文明 |
歌人・つちや ぶんめい〜1890〜1990年 |
| 昭和20年/1945 |
歌人。群馬県群馬郡に生まれる。明治42(1909)年に上京して伊藤
左千夫宅に寄寓し、第3次『新思想』に参加。短歌雑誌『アララギ』 初期同人の最年少であったが、島木赤彦、斉藤茂吉、中村憲吉らの
影響を受けつつ、大正6(1917)年には同誌の選者の一人に。翌年 から教師に専念するが、大正13(1924)年に帰京。歌人として再出発を
切る。大正14(1925)年に第1歌集『ふゆくさ』刊。島木赤彦亡き後は 斉藤茂吉とともに『アララギ』の指導的な存在に。戦後は同誌に
文明選歌欄を設け、新人を育成した。また、万葉集研究にも挑み、 昭和52(1977)年、『万葉集私注』10巻を刊行した。
歌集に『山下水』『青南集』『続青南集』ほか。 |
| 昭和20(1945)年5月、東京で戦災にあった文明は、弟子のあっせんにより、
吾妻町に疎開。6年に及ぶ滞在の間、ことあるごとに草津を訪れたと 伝えられています。戦後、歌人の佐藤緑葉とともに、吾妻一帯の文科復興に
貢献した文明ですが、草津への愛着はことのほか深く、代表歌集 『山下水』の冒頭には、草津を詠んだ歌が5首掲載されています。
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吉野秀雄 |
歌人・よしの ひでお-1902〜1967年 |
| 昭和23年/1948 |
群馬県高崎市出身の歌人。大正11(1922)年に慶応大経済学部に入学
するが、肺結核を患い中退。闘病中に正岡子規の作品に啓発されて国文学を 独修する。家業の織物問屋・吉野藤東京支店で働きながら、仏教美術
研究の権威者で歌人・書家の会津八一に師事。昭和22(1947)年刊行した 第3歌集『寒蝉集』は4児を残して他界した妻への挽歌、家庭的な不幸を
詠んだ人生詠で、生動感きわだつ作風で注目。代表歌の「真命の極みに 堪へてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あはれ」は死期が近い
妻との交流を詠んでいる。昭和33(1958)年、『吉野秀雄歌集』で 読売文学賞受賞。随筆集に『やはらかな心』『心のふるさと』など。
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| 昭和23(1948)年、秀雄は、高崎市の俳人・上村古魚とともに来草。宿泊した旅館には、
秀雄の書がいくつか残されています。彼の草津への愛着は深く、 『吉野秀雄歌集』には「草津秋情」という一遍を収録。また、酔った勢いで
湯畑に向かって座り、手をついて「温泉に感謝する」と叫んだエピソードも伝えられています。
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