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平井晩村 |
小説家・ひらい ばんそん〜1884年〜1919年 |
| 大正7年/1918 |
「草津よいとこ/一度はおいで」の草津節の作詞者としても有名な
群馬県出身の小説家・詩人。『新声』『文庫』などに短歌・詩を投稿して 認められる。民謡集『野葡萄』の出版に際して、夏目漱石、相馬御風、
横瀬夜雨らの有名人が序文を寄せている。妻の死後、3児とともに 前橋に戻り『少年倶楽部』『日本少年』などの少年小説を、『面白倶楽部』
に歴史小説を発表し、執筆に追われた。また『上野毎日新聞』の 主幹となり、旧制前橋中学の校歌も作詞。詩集に『野葡萄』『茶摘唄』
『麦笛』。いずれも自然の抒情的描写の中に人生的な哀感をにじませ、 民謡風な世界を形成している。 |
| 「草津よいとこ、一度はおいで〜」。有名な草津節の原形を作詞したのが晩村です。
紀行文「湯けむり」の中で「湯もみの拍子に合うやふな唄を・・・」と思い立ち、 扇の白地に書き付けたのが「草津よいとこ里への土産、袖に湯花の香が残る」
「草津よいとこ 白根の雪に 暑さ知らずの風が吹く」という二つの歌。 大滝之湯の庭に、歌碑が建てられています。また、遺族のご好意により、
晩村の遺品一式が町に寄贈され、温泉資料館の晩村コーナーに展示されています。 |
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水野仙子 |
小説家・みずの せんこ〜1888年〜1919年 |
| 大正7年/1918 |
明治末期から大正初期の女性作家。福島県出身で、長兄は歌人の
服部躬治。須賀川裁縫女学校に在学中から『文学世界』などへ 投稿を続け、田山花袋に認められて上京する。明治42(1909)年、
長姉の死産の様子を描いた『徒労』で文壇デビューを果たす。 同門の川浪道三との恋愛、結婚生活を経て、男女間の相剋、心の
行き違いや揺れを記した『淋しい二人』『神楽坂の半袖』を発表。その後、 結核を患った夫から感染。3年間の闘病生活で死を見つめた作品を残す。
死後、夫を中心に田山花袋、有島武郎らにより、大正9(1920)年、 『水野仙子集』が刊行。洋画家の岸田劉生が装丁を手掛けた。
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| 仙子は肋膜炎に侵されたとき、草津で医師として活躍していた姉・服部けさ子は
「聖バルナバ医院」や「鈴蘭病院」などに勤務。姉の懸命なる治療にも かかわらず、薬石効なく、仙子は32歳の若さで病没。田山花袋が大きな
期待を寄せていた仙子の死は、あまりにも早く、あまりにも突然でした。 |
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大町桂月 |
小説家・おおまち けいげつ〜1888年〜1919年 |
| 大正7年/1918 |
随筆家、詩人、評論家、国学者、記者とさまざまなジャンルで活躍。
高知県生まれ。12歳の時に叔父を頼って上京するが、まもなく 両親を亡くし兄の元へ。第一高等中学時代に文学に親しみ、帝大に入学。
武島羽衣らの創刊した『帝国文学』に、塩井雨江とともに美文、韻文を発表した。 その後、3者によって刊行された詩文集『花紅葉』の「古典を模倣した
文体や主題」が評価を得、大学派・赤門派と呼ばれて当時の詩壇に 存在を示した。後に、島根の中学校教師を経て博文館に入社。
『太陽』『中学世界』などに毎号、評論や紀行文を掲載した。明治31(1898)に 刊行された『黄菊白菊』には、擬古典派の美文を収めている。
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| 桂月が草津を訪れたのは、明治41(1908)年の晩秋。草津のことは
『関東の山水』の中で、ユーモアを込めて「アラおかし、風呂に入るに号令かけて 揃って3分、快晴の2分、残って1分 チックリ辛抱、辛抱のしどころ
でとび上がる」という歌にして表現しています。 |
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河東碧梧桐 |
俳人・かわひがし へきごとう〜1873年〜1937年 |
| 大正10年/1921 |
中学時代から正岡子規に師事した俳人。松山市生まれ。絵画的
作風、印象明瞭の個性を持ち味に「俳句革新運動」に加わる。 正岡子規没後、『日本俳壇』を主宰。新傾向俳句を唱え、単なる自然
諷詠でなく、個人の官能感覚を通した描写を志向。定型にとらわれず、 自然主義に接近した、いわゆる「無心中心論」を提唱し、正岡子規
の双璧として知られた高浜虚子と対立。旧習打破、真実探求、 個性拡充の時代の風潮は新傾向運動に強い刺激を与え、
全国を風靡した、大正時代、門下が離反分裂する中で、さらに 自由律に進む。晩年は、ルビ俳句を試みるなどその生涯は
詩人的純粋さで貫かれた。句集『碧梧桐句集』ほか、紀行文に『三千里』など。 |
| 碧梧桐は、来草の折り、旅館の看板の文字を書き、現在も同館に設置されて
います。俳人として名高い碧梧桐ですが、晩年は「書」を生活の資とし、 中国六朝体の書風を、洋画家であり書家でもある中村不折らとともに
研究に精を出しました。草津行きは、その不折のすすめではないか、と いわれています。 |
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長塚節 |
歌人、小説家・ながつか たかし〜1879年〜1915年 |
| 明治30年/1897 |
正岡子規に入門し、写生主義を継承した歌人、小説家。号に桜芽・夏木
・青果・黄海桜主人。茨城県生まれ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』 などを読んで異常な感銘を受けて入門。正岡子規の死後『馬酔木』の同人と
なり、廃刊後は『アカネ』を経て『アララギ』に参加する。写生の徹底を目指し、 自然観賞や冴えを精細に説き、アララギ興隆の基礎を築くが、新風を求める
島木赤彦、斉藤茂吉らと対立。文化活動のほか、正岡子規の勧めもあって 故郷で炭焼き、肥料改良などの農事研究にも従事する。
短歌の代表作には、死の間際まで続けた連作『鍼の如く』、小説には 貧しい農民の悲哀を精細執拗に描いた『土』がある。
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| 長岡節が草津を訪れたのは、明治30(1897)年と41(1908)の2度。
最初の来草は、持病の脳神経衰弱のためでした。その時 「浅間嶺は雲の立ちしかば常の日は 点に見しかど低山に見ゆ」など
7首の短歌も作っています。二度目の草津に訪れたその帰り道、 榛名を越え、たまたま濃霧にあった情景を歌った「濃霧の歌」
15首も非常に有名です。 |
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若山牧水 |
俳人・わかやま ぼくすい〜1885年〜1928年 |
| 大正9年/1920 |
歌の旅人、酒の歌人として知られた庶民的歌人。宮城県出身。
中学校在学中から作歌活動を開始、早大入学直後に定型短歌への 懐疑を表明した尾上柴船門下となり、前田夕暮、正富汪洋らと
『車前草社』を結成。主に『新声』に作品を発表した。『別離』で 一躍歌壇の寵児となり「牧水、夕暮時代」を築いた。雑誌『創作』も
創刊・主宰。作品は青春の苦悩を悲愁と情憬をこめて感情的に 詠い、晩年には旅を中心に自然と酒を詠んじて、人生の疲労と
倦怠を反映。優れた紀行文や随筆も発表している。主な作品に 『海の声』『独り歌へる』『路上』『死か芸術か』など。石川啄木とも
親交が深かった。 |
| 草津を訪れた牧水は、吾妻川の渓谷や周囲の山並みに心酔し、『上州草津』
などの紀行文、多くの詩歌に自然の美しさを表現しました。紀行文の多くは 時間湯の描写に割かれており、「湯もみの板の音がいよいよ激しく、その唄も
つぎからつぎへとつづく。(中略)料理屋の三味線のさわぎがきこえ、あんまの笛も まじる。」と、夕暮れ時の草津の情景が描かれています。
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小野湖山 |
漢詩人・おの こざん〜1814年〜1910年 |
| 明治10年/1877 |
幕末維新期の漢詩人。近江国(滋賀県)浅井郡高畑村の医師
・横山玄篤の長男。本来は横山氏だが、後に小野氏を称するように なった。郷里の大岡松堂に徒学したのち、江戸で尾藤水竹、
藤森弘庵に経史を学ぶ傍ら、梁川星厳の玉池吟社に学んで頭角を 現す。維新後、明治政府の総裁局権弁事、記録局主任に任じられたが、
ほどなく辞任。その後は、大沼沈山らとともに東京詩壇の重鎮として 活躍した。明治16(1883)年には、維新の功績が認められて天皇から
硯と京絹を賜り、感激してその書斎を「賜硯楼」と名付けたという。 詩集に『湖山楼詩屏風』『湖山楼詩鈔』など。
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| 明治時代、漢詩壇に名を馳せた小野湖山が草津温泉を訪れたのは、
藤森弘庵が上州の地を経歴したころと推測されます。『遊草津温泉歌』 のほか、『草津雑詩』『草津客中作』など、湖山は、草津の風物を詠んだ
作品を多数残しています。 |
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横山大観 |
日本画家・よこやま たいかん〜1868年〜1958年 |
| 大正4年/1915 |
明治22(1889)年、東京美術学校(東京芸術大学の前身)に一回生として
入学。狩野派・橋本雅邦に師事した。卒業後、古典の模写に努め、 この頃から大観の雅号を用いた。明治29(1896)年、母校の助教授に着任。
翌年発表した『無我』は出世作に。しかし学内須津にともない辞職。 日本美術院創立に参加する。この時代、画友・菱田春草と西洋画手法の
採用、無線描法を試み「日本画の近代化」を積極的に推進した。 大正3(1914)年、日本美術院を再興。院の中心となり、芸術の自由と
独立を唱える。総決算ともいえる水墨画『生々流転』は、この頃描かれた 大作。昭和12(1937)年、第一回文化勲章を受賞。画壇の第一人者として、
生涯活躍を続けた。 |
| 大観は、同人の方二人とともに、大正4(1915)年、草津温泉を訪れています。
当時、日本美術院を再興させ、名実よもに画壇の中心的存在だった大観は、 町の名士にも記念撮影をせがまれたようで、その時の写真は、六合村小雨に
ある「冬住みの里資料館」に大切に保存されています。 |
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川端龍子 |
日本画家・かわばた りゅうし〜1885年〜1966年 |
| 大正5年/1916 |
剛健な大作を次々と発表した日本画壇の巨匠。和歌山県生まれ。
画家を志して白馬会洋画研究所、太平洋画研究所で学ぶ一方、 漫画や新聞挿絵なども手がける。ボストン美術館で東洋画に感銘して
帰国した後、日本画に転向。平福百穂らの「天声会」に参加。初の 日本画となった『観光客』が東京大正博覧会に入選。2年後、
再興日本美術院で初入選を果たして同人となるが、剛健な会場芸術を 唱えて脱会。「青龍社」を結成・主宰して、豪放な作品を生みだした。
昭和12(1937)年には帝国芸術院会員に推されたが辞退。昭和34 (1959)年に文化勲章受章。俳句『ホトトギス』同人でもあった。
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| 草津温泉は、龍子の出世作『霊泉由来』の舞台にもなりました。
野獣と温泉にからむ山の伝説を描こうとした龍子は、 湯畑に立つ灯籠を見た瞬間に着想。その喜びを龍子は「その第一印象は
壮観!たちまち私の頭は働き出した。(中略)私の構想は草津の町の瞬間の 印象でまとまった。」と記しています。この作品は第三回院展に入選、
樗牛賞を受賞しました。 |
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犬養木堂(毅) |
総理大臣・いぬかい ぼくどう(つよし)〜1855年〜1932年 |
| 大正6年/1917 |
普通選挙運動を推進した、政党政治家。木堂は雅号。岡山県生まれ。
大隈重信に従って立憲改進党結成に参加。一貫して政党政治の確立に 貢献し、憲政擁護運動を指導した。大隈内閣の文部大臣、山本内閣の
通信兼文部大臣、加藤内閣の遮信大臣などを歴任。一時期、政界を 引退するが、後継者たちに推されて衆議院議員に再選。田中義一政友会
総裁の後継に。昭和6(1931)年、内閣を組織して満州事変後の難局にあたるが、 翌年、海軍青年将校が指導した五・一五事件により殺害。その後、
テロを実行した将校に「話せばわかる」と放った言葉はあまりにも有名。 書にも優れ、中国の政治家との親交も深く、情に厚い政治家としても知られている。
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| 護憲派の首相・犬養毅は、「木堂会」開催のために草津に訪れました。
当時、毅は政党政治を標榜し、国民党党首として、党の主張を遊説した と伝えられています。 |
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アーネスト・サトウ |
外交官・Ernest.Mason.Satow〜1843年〜1929年 |
| 明治10年/1877 |
幕末から明治期にかけて、通事として活躍したイギリスの外交官。
ロンドン生まれ。東洋に憧れを抱き、外務省の通訳生試験に合格。 慶応元(1865)年、横浜領事館付き日本語通訳官に。翌年
『ジャパン・タイムズ』に「英国策論」を発表し、自ら日本語に翻訳。 「天皇を元首とする諸大名の連合体が支配勢力になるべき」という
倒幕を示した内容で広く世に知れた。日本語書記官を経て、ウルグアイ 公使、モロッコ公使など歴任した後、明治28(1895)年には
日本駐在公使に任命。死去にともない、「偉大な極東外交官」と 讃えられた。『英和口語辞典』『一外交官の見た明治維新』など
数多くの日本研究書を執筆。 |
| 明治15(1882)年、アーネストが来草した時、草津は厳寒の冬を
迎えていて、旅館の多くは筵で囲われていました。その様子を 彼は「輸送されるのを待つ大きな商品」のよう、と比喩。寒さのためか、
温泉に2度入り、「湯は大変熱く、(中略)皮膚のあらゆる 孔を刺激する」という感想を残しています。 |
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嘉納治五郎 |
柔道創始者・かのう じごろう〜1860年〜1938年 |
| 大正8年/1919 |
近代柔道の発展に努めた、講道館柔道の創始者。明治10(1877)年、
虚弱体質のため天神神楊流道場に入門、柔術を習う。明治14(1881)年、 東大文科卒後、翌年学習院講師に。同学教頭、高等師範学校校長などを
歴任した。早くから「講道館」の額を掲げ、柔術を指導。後、日本伝講道 館柔道と称して「柔道」の成立を宣言。優れた理想と技術によって
国内外に「柔道」を広めた。明治42(1909)年、日本初のオリンピック 委員会委員に就任。第5回ストックホルム五輪には、選手2名を率い、
初参加。東京オリンピックの誘致を成功させるなど、日本スポーツ界に 多大な功績を残した。彼の名を冠した「嘉納治五郎杯」も開催されている。
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| 治五郎は、大正8(1919)年8月21日、貴族院議員を務めていた時、
夫人とともに来草しています。『草津町史』には、滞在は5泊だったという 記録が残されています。 |
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