|
鹿児島寿蔵 |
人形作家・歌人・かごしま しゅぞう-1898〜1982年 |
| 昭和29年/1954 |
独自の紙粘土による紙塑人形の創作を続け、人間国宝に。アララギ派歌人でも
ある。福岡市生まれ。有岡米次郎に弟子入りし、独自のテラコッタ(陶芸)人形の 制作を始める。その一方で短歌雑誌『ハカタ』の同人となる。第1回帝展に
紙塑人形『黄葉』が入選。以後、さまざまな展覧会に出展。神話・伝承などにも 関心を寄せ、創作のため幅広く取材。土屋文明らに師事。潮夕会を結成し、主宰。
機関誌『潮夕』も発刊した。歌集『故郷の灯』で迢空賞を受賞。また、 4年連続で宮中歌会始の選者にもなった。
|
| 昭和29(1954)年、寿蔵は『潮夕』の同人たちと白根登山をし、万座方面へ下りて、
一泊しています。この時、雄大な山岳の自然に心打たれた寿蔵は16首の歌を詠み、 「草津白根作品集」と題して、『潮夕』に掲載。「噴きいずる 煙りの高く まじりゆく
天は漠々と日の照りさかる」などの秀歌が残されています。 |
|
|
村松梢風 |
むらまつ しょうふう-1889〜1961年 |
| 昭和8年/1933 |
静岡県生まれ。慶大卒業後、日本電報通信社で記者を務めるかたわら、
文筆を志し、大正6(1917)年、雑誌「中央公論」に『琴姫物語』を発表。その 情話的な語り口が認められ、文壇デビュー。騒人社を設立し、個人誌
『騒人』を創刊。『正伝清水次郎長』『人間飢餓』『東海美女伝』などを連載し、 緻密な時代考証を基にした伝記風小説を数多く残した。その方面の代表作に
『本頼画人伝』『近世名勝負物語』など。また、昭和12(1937)年に発表した 『残菊物語』は、梢風の代名詞とも言える作品。演劇・映画化され、その
ストーリーは多くの人の心を打った。中国の歴史・文化にも造詣が深く、 紀行文に『魔都』『支那漫談』など。
|
| 梢風は、昭和8(1933)年、江戸時代の草津を舞台にした短編小説
『草津湯噺』を文芸誌『大衆倶楽部』に発表しています。湯治の客同士が、 江戸に残した武家の妻の浮気を賭けることからはじまり、ユーモアあふれる
物語が展開されています。また、梢風がこの年に草津に訪れていることから、 来草の目的は取材だと思われます。
|
|
|
菊池寛 |
きくち ひろし-1888〜1948年 |
| 昭和8年/1933 |
香川県高松市生まれの小説家。奔放な生活が原因で東京高師を除名される。
その後、一高でも友人の罪を被り退学。大正2(1913)年、京大へ進学し、劇作家を 志す。しかし、一高の同級生だった芥川龍之介や久米正雄らに誘われて、
第3次・第4次『新思潮』に参加。後に代表作となる小説『父帰る』を発表したが 世間に認知されなかった。京大卒業後、「時事新報」の記者に就き、「中央公論」
に短編小説を発表。新進作家と認められ、新聞小説を掲載。流行作家となる。 また、大正12(1923)年に『文芸春秋』を創刊。芥川賞、直木賞、菊池賞を創設
した。数多くの役職に名を連ね、”文壇の大御所”と呼ばれた。 |
| 寛が初めて草津を訪れたのは、昭和8(1933)年のスキーカーニバルの時。
多彩な著名人を招待したこのイベントは成功を収め、草津のスキー場は全国に 名を広めました。その後も、彼は何度か足を運んだ様子で、その思い出は
エッセー『話し屑籠』の中に収録。旅情を込めた筆致で描かれています。 |
|
|
石川達三 |
小説家・いしかわ たつぞう-1905〜1985年 |
| 昭和10年/1935 |
秋田県出身の小説家。昭和2(1927)年に早大英文科を中退後、昭和5(1930)
年、移民船でブラジルへ渡り1年間滞在する。その体験をもとにした 『蒼氓』は昭和10(1935)年、第1回の芥川賞を受賞。その後、ダムの湖底に
沈む奥多摩の村を題材にした『日陰の村』や、日中戦争を視察した 『生きていた兵隊』を執筆。戦後の作品では、戦時下の言論人の苦境を描いた
『風にそよぐ葺』、教育問題を主題とした『人間の壁』など、時事的問題や 社会的風潮をテーマにした作品を発表。アジア・アフリカ作家会議のメンバー、
日本ペンクラブ役員も歴任。著作は『金環触』『傷だらけの山河』など多数。 |
| 達三は、記念すべき第1回の芥川賞を受賞していますが、その受賞の報を
受けたのは、草津に滞在していたときでした。受賞作『蒼氓』は、 海外移民対策の問題点を説いた作品として、昭和文学史に刻まれています。
|
|
|
林芙美子 |
小説家・はやし ふみこ-1903〜1951年 |
| 昭和12年/1937 |
小説家。幼い頃から家族と九州各地を行脚。転校を繰り返す中で
文学志望が芽生える。大正11(1922)年、尾道高女卒業後に上京。 工員、女給など職を転々としながら詩や童話を創作。詩人の田辺若男と
同棲中、萩原恭次郎ら前衛詩人と知り合い強い影響を受けた。昭和3 (1928)年、「女人芸術」連載の「秋が来たんだ−放浪記−」が好評で、
昭和5(1930)年、『放浪記』として出版。恵まれなかった半生を捨てばち な明るさで描き、ベストセラーに。日中戦争勃発後は従軍作家として
各地を歴訪した。代表長編『浮雲』をはじめ、『晩菊』『めし』など、 抒情と哀愁をたたえた多くの作品を発表。
|
| 芙美子は、昭和12(1937)年に草津スキー場を訪れています。そのときは
文芸評論家の小林秀雄や深田久弥も一緒でした。中央公論社の「日本の 文学・四十七、林芙美子」(昭和39年刊)の年譜には、「昭和12年(34歳)
2月 小林秀雄、深田久弥と草津スキー場へ行く」とありました。 |
|
|
井上靖 |
小説家・いのうえ やすし-1907〜1991年 |
| 昭和25年/1950 |
純文学・中間小説・新聞小説と、練達した筆を揮った小説家。
北海道出身。京大在学中に『流転』で千葉亀雄賞に入賞。卒業後、 毎日新聞社に入社。昭和24(1949)年に『闘牛』が芥川賞を受け、
文壇の人気作家として旺盛な著作活動に入る。昭和32(1957)年 以降は数多くの中国訪問。中央アジア・オリエント・ヨーロッパ
を旅して『敦煌』『桜欄』などの益し小説を次々に発表する。 日本史分野の『風林火山』『淀どの日記』(野間文芸賞受賞)や
『本覚坊遺文』(日本文学大賞)は、80歳を越えて完成した『孔子』 とともに井上文学の最高峰をなす。日本芸術学院会員、文化勲章
受章。 |
| 井上靖は、『闘牛』で芥川賞を受賞した翌年、草津を訪れています。
作家として、資料収集のため鋼管鉱業群馬鉱業所(元山)、草津事務所 などを視察していたようです。 |
|
深田久弥 |
作家・ふかだ きゅうや-1903〜1971年 |
| 昭和12年/1937 |
山岳随筆家、作家。東大文学部中退。昭和2(1927)年から3年間、
改造社編集部に勤務する。昭和4(1929)年以後、『津軽の野づら』、 『オロッコの娘』などを発表。素朴さと野性味のある作風が評判に。
また、小林秀雄らの『文学界』同人としても活躍する。昭和10年代には 『鎌倉夫人』、『知と愛』を刊行する傍ら、山岳紀行文集も出版。
昭和19(1944)年には大戦に召集されたが、帰還後、主として山岳記事を 執筆する。内外の文献を収集して、ヒマラヤ研究に没頭。その代表的な
成果は、読売文学賞を受賞した『日本百名山』をはじめ、『ヒマヤラ の高峰』全5巻、『中央アジア探検史』などの著作に見受けられる。
|
| 幼い頃から山登りやスキーが好きだった久弥は、読売文学賞を受賞した
作品『日本百名山』の中で、名山の一つに草津白根山を上げており、 白根山の特徴を見事な文章で描きだしています。また、晩年の作
『瀟酒なる自然−わが山旅の記−』でも草津の自然にふれ、久弥の 草津に対する心酔の様子がうかがえます。 |
|
|
高村光太郎 |
彫刻家・たかむら こうたろう-1883〜1956年 |
| 昭和2年/1927 |
大正〜昭和の彫刻家・詩人。東京下谷生まれ。父・高村光雲は
木彫家で東京美術学校(現・東京芸術大学)教授、帝室技芸員。 光太郎は、東京美術学校在学中から「明星」に短歌や詩を寄稿。
明治35(1902)年、彫刻科を卒業すると、渡欧してロダンに学ぶ。 活動分野は、彫刻・詩・批評・翻訳などと実に幅広く多岐に及んで
いる。交流も活発で、美術では岸田劉生ら、文芸では北原白秋・ 吉井勇ら耽美派芸術家。代表作は、彫刻では『手』『老人の首』、
詩集では口語自由詩を完成させた『道程』。また、妻・智恵子への 切実な愛をつづった『智恵子抄』など。 |
| 光太郎は、2度草津を訪れています。初めて来草した昭和2(1927)年には、
この冊子の冒頭で紹介した詩「草津」を残し、白根神社拝殿近くの囲山公園 には詩碑が建てられています。2度目に、智恵子夫人を伴って訪れた昭和8
(1933)年には、滞在の折り「草津の湯がよく、智恵子のからだにききそうです」 という手紙を書いています。また、名詩集『道程』には、草津を詠んだ詩も
収録されています。
|
<1><2><3><4>
|