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草津温泉の歴史

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岡本太郎 洋画家・おかもと たろう〜1911年〜1996年

昭和50年/1975

 「芸術は爆発だ」のキャッチフレーズで、お茶の間でも人気に。父は、 漫画家の岡本一平、母は歌人の岡本かの子。昭和4(1929)年、東京 美術学校(東京芸大)を半年で中退、両親とともに渡仏し、昭和6(1931)年、 パリ大哲学科に入学。翌年、ピカソの作品に触発され、作品制作に励む。 純粋抽象の作品群によって仏批評家の称賛を受ける。昭和12(1937)年、 初の画集『OKAMOTO』を出版。しかし、同年『傷ましき腕』を発表、 抽象画と訣別した。パリ陥落とともに帰国。戦後は二科会会員になって 対極主義を主張。旧都庁舎の陶板壁画の制作で仏国際建築絵画大賞、 著書『忘れられた日本』では毎日出版文化賞を受賞。昭和45(1970)年、 大阪万国博覧会のシンボルとなった『太陽の塔』の制作でも知られる。

 岡本太郎は、昭和50(1975)年に来草。目的は温泉とスキー旅行だったようです。 その時、たまたま町の関係者と親しくなり、草津の都市計画の依頼を受けました。 湯畑周辺の石柱を並べた「遊歩といこいの場」は、太郎の監修によるものです。


中山晋平 作曲家・なかやま しんぺい〜1887年〜1952年

昭和3年/1928

 童謡、歌謡曲、新民謡、芸術歌曲の作曲家。郷土の長野から上京し、 島村抱月家の書生を務め、東京音楽学校(東京芸大)に通う。抱月が主宰 する芸術座の劇中歌として作曲した『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』が ヒットして人気に。大正10(1927)年、大ヒットした『船頭小唄』を作曲。以後も 流行歌を生み出し、『東京音頭』や『東京行進曲』など、一連の歌謡曲は 「晋平節」と呼ばれた。また、童謡運動にも参加。『証城寺の狸囃子』 『てるてる坊主』『雨降りお月さん』など傑作を残す。さらに新民謡運動や 芸術歌謡でも大きな役割を果たす。彼の作品は親しみやすさに特徴が あり、幅広い層から支持された。

 昭和初期、晋平は『草津小唄』(相馬御風作詞)を作曲しています。当時、 流行していた新民謡の波に乗り、小唄はたちまち町内に広がり、 湯もみの時やお座敷で唄われました。その後も土地に根付き、 今でもお座敷で唄い継がれています。


服部良一 作曲家・はっとり りょういち〜1907年〜1993年

昭和45年/1970

 生来の音楽好きで、実践商業在学中に少年音楽隊に入る。卒業後は大阪 放送局(NHK)のオーケストラに入団。昭和8(1933)年に上京。昭和11(1936) 年、コロムビアレコードに専属作曲家として入社。初期作品『別れのブルース』 は日中戦争前線の兵士に愛唱され、昭和13(1938)年、慰問団の一員として 中国を旅行する。昭和15(1940)年、『蘇州夜曲』を作曲。軍歌は作らず、 厳しい世相の慰めとなる歌を世に送る。戦後の作品は、『東京ブギウギ』 を始め、『銀座カンカン娘』『青い山脈』など多数。昭和46(1971)年には 交響詩曲『ぐんま』を作曲。流行歌に限らず、映画音楽、劇音楽、社歌、 校歌など、作品は3,000曲を数える。

 温泉街に宿泊した翌日、良一は車で白根山頂へ向かいました。ロッジで休憩を している時、良一は自分の子どもと間違える見知らぬ老婆と遭遇。 老婆は脳軟化症だったようで、初めは驚いていた良一も、迷惑がらず、老婆に 手を引かれるまま、山道を登っていきました。良一のやさしい心が伝わる、 微笑ましいエピソードです。


力道山 プロレスラー・りきどうざん〜1924年〜1963年

昭和35年/1960

 力士、プロレスラー。本名は金信洛。故郷亡き児として北朝鮮や満州を 彷徨、義父・玉の海梅吉に拾われて二所ノ関部屋に入門。昭和21(1946) 年に入幕、破竹の勢いで昇進を続けるが、翌年に力士を廃業する。昭和 26(1951)年、プロレスラーに転身。世界の屈強レスラーを次々と倒した後、 アメリカ本土に上陸。北米大陸を転戦し、300戦中、敗戦はたったの5回。 昭和28(1953)年、凱旋帰国して「日本プロレス協会」を発足。黒タイツに空手 チョップの力道山は子どもたちのアイドルで、プロレス放送がある日は 街頭や店頭のテレビの前に大勢の人が集まり、彼の活躍は復興に向かう 日本人を勇気づけ、人気は絶大となった。

 力道山が来草したのは、第二回国際リーグ戦が草津で開催された時のこと。 日本プロレス協会の好意により、草津でのドリームマッチが実現しました。 各国の代表選手はもちろん、圧倒的な人気を誇る力道山の出馬には、 「本物の力道山を見たい」と大人も子どもも試合を待ち望み、草津の町は 活気づきました。


栃錦清隆 力士(44代横綱)・とちにしき きよたか〜1925年〜1990年

昭和58年/1983

 東京都出身の力士、44代横綱。春日野(栃木山)の養子となり、 昭和14(1939)年に春日野部屋から初土俵。稽古に打ち込み、 48手のうらおもてを土俵に再現。技能賞を9回も受賞する。昭和29 (1954)年の秋場所後、横綱に昇進。けがや病気で休場することは なかったが(兵役の時は休場)、翌年の秋場所では蓄膿症と 慢性気管支炎で休場する。その後、年齢を重ねて体重が増えた ことから、立ち合いの瞬発力と一気の寄りを中心とした取り口に変え、 場内を沸かせた。初代・若乃花を相手に相撲史に残る名勝負を 繰り広げ、「栃若時代」を築いた。昭和35(1960)年引退。優勝10回。

 足に血行障害が起きた栃錦は、昭和58(1983)年に治療のために 来草しました。温泉で治療しながら、群馬大学草津分院に通院。 その結果、見事に病を克服し、ゴルフ場に通えるほど回復。昭和63(1988) 年まで、年寄春日野を名乗り、相撲協会理事長を務め相撲界の発展に尽力しました。


モーリス・ジャンドロン チェロ奏者、指揮者・Maurice Gendron〜1920年〜1990年

昭和55年/1980

 パリ音楽院に学び、チェロ科を主席で卒業。さらにプラードで巨匠・カザルスに 師事する。昭和25(1950)年頃から独奏家として活躍を開始し、ヨーロッパ各地からアメリカまで 演奏旅行で飛び回り、各地で絶賛を博した。メニューインとグループを作って数多くの演奏を 行っている。西ドイツのザールブリュッケン音楽院チェロ科教授を務める傍ら、独奏家としての 活躍も展開。

 世界で活躍するチェロ奏者のジャンドロンは、昭和55(1980)年に行われた第1回 草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルに来草。講師として音楽を指導するとともに、 美しい演奏を披露しました。また彼は、第9回のときも来草しています。


木下恵介 映画監督・きのした けいすけ〜1912年〜1998年

昭和20年/1945

 映画からテレビドラマまで多数の作品を発表し、戦後の映画・ドラマ界に 大きな影響を与えた映画監督、脚本家、プロデューサー。静岡県生まれ。写真学校 卒業後、松竹蒲田撮影所技術部・監督部を経て、映画『五人の兄妹』で脚本デビュー。 昭和18(1943)年の『花咲く港』では監督デビューを果たし、東宝の黒澤明監督とともに 優れた新進監督に送られる山中賞を受賞。以後、二人は何かにつけて比較される立場に 置かれ、後に「男性映画の黒澤」「女性映画の木下」と並び称された。感傷性ゆたかな映画を得意とし、『二十四の瞳』『楢山節考』など数々の名作・ヒット作を放つ一方、新人発掘にも鋭い感性を発揮。「木下学校」からは多くのスター、監督、脚本家が巣立った。

 昭和21(1946)年、封切られた映画『わが恋せし乙女』の撮影で、北軽井沢に 訪れた折り、木下監督は足をのばして草津を訪れました。その時、旅館の人と酒を酌み交わしながら、話しの中に出た地方文化運動の助言が、1シーンに覚められていました。


今井正 映画監督・いまい ただし〜1912年〜1991年

昭和29年/1954

 映画監督。昭和10(1935)年、東大文学部中退。東宝映画に所属し、敗戦までは風俗映画と戦意高揚映画を制作した。しかし、民主主義を啓豪していた今井は、戦後ただちに『民衆の敵』を撮影。財閥を痛烈に批判した。昭和24(1949)年には、代表作となる『青い山脈』を発表。学園の民主化を青春喜劇の中に描いた作品は、世代を越え幅広く支持された。昭和23(1948)年の東宝争議では敗北し退社。独立プロ運動に参加する。昭和28(1953)年、戦争の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』が大ヒット。その後は独立プロで多くの作品を撮り続けた。他の作品に『ここに泉あり』『真昼の暗黒』『橋のない川』など多数。

 今井監督は、映画『ここに泉あり』の撮影のために来草。高崎市民フィルハーモニー(群馬交響楽団の前身)誕生の軌跡を描いたこの映画は、草津・楽泉園で一部が撮影されました。時には百名をこえる登場人物の撮影も有り、町民はエキストラとして協力。監督やスタッフを囲んでの懇談会も行われました。


田中絹代 女優・たなか きぬよ〜1909年〜1977年

昭和20年/1945

 山口県生まれの女優。13歳で大阪に出て、少女歌劇団の女優となる。大正13(1924)年、松竹下加茂撮影所に入社。やがて松竹の大スターとなる。戦前の話題作は『マダムと女房』『伊豆の踊り子』、恋愛メロドラマの傑作と呼ばれた『愛染かつら』など。戦後、演技に円熟味が増し、『西鶴一代女』『山椒太夫』『おかあさん』といった日本映画黄金時代の傑作に名演技を残す。また、自身で監督も手掛け、昭和28(1953)年『恋文』を発表。老年にさしかかると、さらに演技に深みが加わり、昭和49(1974)年の『サンダカン八番娼館・望郷』では、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。

 田中絹代は、各地で空襲が起きている戦争中に、芝居公演のため草津を訪れました。草津での公演は「食事は戦前と同じ物を揃えること」「各自にリュック一杯の食料品や、薬等を持たせること」等の約束の上実現しました。公演当日、映画界を代表する大女優を一目見たさに会場は大盛況。入場を制限しても場外には山のように観衆が集まったそうです。


高峰三枝子 女優・たかみね みえこ〜1918年〜1990年

昭和62年/1987

 映画女優。東京都生まれ。本名:鈴木三枝子。筑前琵琶宗家・高峰筑風の長女。昭和11(1936)年に松竹大船撮影所に入り『母を尋ねて』でデビュー。お嬢さん女優として売り出され、翌年には『荒城の月』『婚約三羽鳥』『浅草の灯』など10本もの映画に出演する。佐野周二、上原謙、佐分利信ら松竹大船を代表する二枚目スターとコンビを組み、田中絹代らと並んで松竹大船の黄金時代を築いた。のち『湖畔の宿』が大ヒットし、歌う映画スターとしても人気を博し、戦時中は軍の慰問に駆け回った。戦後も『自由学校』『女の園』など数多くの映画に出演。昭和56(1981)年にかつての共演者・上原謙とのCM「フルムーン」で話題を呼んだ。

 昭和の映画スター・高峰三枝子は、あるテレビ局の取材で草津を訪れました。草津を巡遊し、メリンスを草津の湯で揉み、小物入れやサイフなどを作る「ゆもみ細工」等を取材していきました。


上原謙 俳優・うえはら けん〜1909年〜1991年

昭和28年/1953

 東京都生まれ。立教大学卒業後、松竹に入社。早くから頭角を現し、清水宏監督作『若旦那・春爛漫』でデビュー。都会感覚の二枚目として、映画界に新風を吹き込んだ。昭和13〜14(1938〜39)年、田中絹代とのコンビで制作された『愛染かつら』三部作は、代表作となり、トップスターの座を獲得。佐分利信、佐野周二とともに、30年代後半の松竹を飾る二枚目・三羽鳥に数えられた。『西住戦車長伝』などの作品では、単なる二枚目から演技派への脱却を図る。戦後、松竹を退社。フリーランスの俳優の先頭として、成瀬巳喜男の『めし』『山の音』を始め、『煙突の見える場所』などの作品で深みのある演技を見せ長年、活躍した。俳優の加山雄三は長男。

 上原謙の初めての来草は、昭和28(1953)年、俳優としてデビューする前になりますが、その後も、妻・葉子、息子・加山雄三を連れ、毎年のように草津を訪れました。滞在の折りには、家族でスキーや温泉を楽しんでいったようです。


石原裕次郎 俳優・いしはら ゆうじろう〜1934年〜1987年

昭和40年/1965

 慶応大学中退。昭和31(1956)年、兄・石原慎太郎が前年に芥川賞を受賞した小説を映画化した『太陽の季節』でデビュー。端役ながら、行動的な若者を強烈に演じ、”太陽族”と呼ばれた青年像の代名詞に。昭和32(1957)年の『嵐を呼ぶ男』で、スターの座を確立。長い足、野性味ある風格は若者の圧倒的な支持を得た。以後、妻となる北原三枝、浅丘ルリ子を相手に、日活青春アクション映画に立て続けに主演。日本映画の黄金時代を体現するドル箱スターとなった。昭和38(1963)年に、石原プロモーションを設立。昭和48(1973)年、東宝『反逆の報酬』を最後にスクリーンを去り、活躍の場を『太陽にほえろ!』『大都会』などのテレビドラマに移した。『銀座の恋の物語』ほか、歌手としてヒット曲も多い。

 石原裕次郎は、映画『赤い谷間の決斗』の撮影のため、来草。監督は、『赤いハンカチ』などで裕次郎主演作をヒットさせた桝田利雄。殺生河原などを舞台に撮影され、デビュー間もない渡哲也が裕次郎の胸を借り、見応えあるアクションに仕上がりました。同年の年末、日活のお正月映画として公開されました。


渥美清 俳優・あつみ きよし〜1928年〜1996年

昭和55年/1980

 喜劇俳優。戦後まもなく大衆演劇の門を叩き、昭和28(1953)年、浅草フランス座に入座、コントを演じる。NHKテレビ『若い季節』『夢で逢いましょう』でお茶の間の人気者に。昭和38(1963)年の映画『拝啓天皇陛下様』では、農村出の青年兵を好演。喜劇俳優として地位を確立した。そして昭和44(1969)年、『男はつらいよ』に主演。しがない旅の露天商「フーテンの寅さん」を魅力的に演じ、人気は不動に。山田洋次監督との二人三脚により、撮影された本数は『寅次郎紅の花』まで全48作。世界で最も長寿なシリーズとなった。闘病の末、平成8(1996)年他界。同年、国民栄誉賞を受賞した。

 「寅さん」こと渥美清は、昭和55(1980)年、第25回作品『寅次郎 ハイビスカスの花』 (マドンナは浅丘ルリ子)の撮影のために来草しました。撮影スケジュールが多忙のためか、宿泊はしなかったようです。


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