草津温泉浪漫


一面、雪景色の草津温泉街。気温は常に氷点下です。
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草津温泉の歴史

草津温泉の歴史

草津開湯伝説・その1
日本武尊が、東国征伐の帰途、大和へ帰る途中に、信濃へ越えようとする時、 草津白根山頂に立ち寄った。足下の雲海を見、相模の走水の海に沈んだ弟・橘媛の ことを思い出し、「吾嬬者耶(あづまはや)」と嘆いて 流した泪が、草津の湯になった。
草津白根山に立った時、東の麓に立ち上る煙を見つけ、山下り、岩陰に湯が沸いている のを発見した。そこでほとりの岩に腰掛け、足を湯に浸した。村人は、この岩を御座石と、 湯を御座の湯と呼んで大切にした。

草津開湯伝説・その2
古文書『温泉来由』(光泉寺所蔵)によると、そのむかし、一人の神仙が現れて 「霊薬を草津の山に埋め、後世、世にも稀なる聖がこの地を訪れたとき、薬湯おのづから 開け、必ず衆生の病を治さん」といって去った、その後。時は流れ、養老5(721)年、 大和の菅原寺の僧行基がこの地を訪れて、神仙の啓示によって霊泉(すこぶる効き目のある泉、という意味) をひらいた、とされている。また、この時山号を草津、寺を光泉寺と名付けたという。

草津開湯伝説・その3
建久4(1193)年8月、源頼朝が浅間山での狩りの際、白根大明神(草津温泉入り口にある) まで馬を乗り入れ、谷底に白煙が立ちのぼっているのを発見。

草津温泉の効能
体質改善・刺激療法としての利用をされていました。時間湯という方法で、 タダレを出すという、やり方でした。当時(江戸時代~昭和・戦時中)においては、 あらゆる病気に最適とされ、心臓病・リュウマチ・結核・性病等々、 患った者は、時間湯によって、完治したと、云われております。

時間湯~江戸時代~昭和(戦時中)の頃の方法
最初に、湯長(下記湯長の役割を参照)の診断を受ける。 まず、湯揉みをする。(この時、温度52~56度) また、唄をうたうことで、蒸気を吸い込み、全身から汗を出し、準備運動をする。 これにより、温泉ガスの成分(硫化水素)を撹拌させる。 入湯前に、頭にひしゃくで、30杯ほどの湯をかける(この時、温度47~49度)。 これは、頭の血管を膨張させて血液の流を良くさせておき、更に、のぼせないように するため。(後頭部には、かけないでおく) そして、一斉に集団で浴槽に入る。3分経ったら、一斉に出る。 これを、一日5回くらい、時間を決めて行う。 それを、何ヶ月か、病気が治るまで繰り返す

湯長の役割
入浴者の、病名・職業・年齢を聞く。それぞれに合った、入湯の仕方を指導する。 健康状態の良い人から先に、入湯させる(一番湯ほど、温度が高い)。 号令を発し、入湯させる。入湯中も、具合が悪くなった人はいないか、 全員に目を配る。

時間湯にまつわる話・素っ裸で入湯~その1
時間湯が始まった頃は、温度は50度以上のままで、入湯していました。 ですから、熱くて我慢できないので襦袢などを身に付けて 入湯しました。 47~49度で、入湯するようになってからは、もちろん、全員(男女共)、素っ裸です。

時間湯にまつわる話・湯女~その2
時間湯を行っていた、熱の湯、松の湯、千代の湯、鷲の湯、地蔵の湯、 そして旅館・望雲館には、「湯女」という、女性の人が常駐してました。 彼女達は、湯治客の世話をしていました。何回も入湯を繰り返した湯治客は、 体からタダレが出て、湯から上がった際にも、痛さで動けないでいたので、 体を拭いてあげたり、着替えを手伝ったりしていました

時間湯にまつわる話・湯長の権限~その3
入湯の際には、湯長は絶対的な存在です。 戦時中、入湯した軍の主将は、湯長の指導を守らなかったので、 湯長に怒鳴られたことも、あった。

時間湯にまつわる話・死んでもいいから草津の湯~その4
入湯には、それなりの体力が必要でした。言い換えれば、死んでしまうことも、 あったらしい

時間湯にまつわる話・湯長はお医者さん~その5
初めて入湯する時は、湯長に病名を告げます。また、状態によっては、 その箇所を見てもらう。性病の時も、もちろん、その箇所を。 湯長は、長年の経験と、実績から、見ただけでも、 どのくらいの期間入湯すれば、完治するか、日に何度入湯したらよいか、 判断できた。

時間湯にまつわる話・浴槽に入ったら~その6
一斉に、集団で浴槽に入るのですが、入ったら、絶対に動いてはなりません。 体を動かすと、湯も動いてしまい、余計に熱く感じるからです。 熱さで我慢できずに、勝手にサーっと、あがってしまった人は、 その熱さで、憤慨した他の人から、なぐりかかられたことも。

時間湯にまつわる話・臭い大便は効果の現れ~その7
毛穴から浸透した温泉の成分は、体内の老廃物を排出させます。 それにより、タダレが出始めるのですが、臭い大便が出るようになります。 それも、老廃物を含んだモノが出るということで、 効果が現れ始めた証拠だと、云われていました。

上がり湯
湯治客は、草津温泉での治療を終えると、上がり湯といって、 近接の沢渡温泉へも、立ち寄りました。 草津よりも温度の低い温泉に入湯して体を柔らげて、いったそうです

湯治客の食事
宿泊先の宿が湯治客に出す食事は、主食のみでした。おかずは無しです。 ですから、おかずを売りにくる人から、買っていました。

冬住み
草津温泉は標高も高く、積雪寒冷地ですので、冬季の生活は困難でした。 そこで冬になると、湯治場を閉鎖して、おのおの近接の六合村などに 下りて生活していました。明治2年に、草津温泉は大火に遭い、 草津の家々を失った人達は、再建のために、冬季住む家を手放し、 1年中草津で生活するようになり、冬住みは次第に解消されて いったようです。

西の河原の云われ
西の河原はその昔(江戸時代)、現在の湯畑辺りまで、続いていたので、 一帯が河原だったようです。当初の名称は、「賽の河原」だっだとか。 そしてその辺りを、「骨が原」とも、云われていました。身よりの無い、 引き取り手の無い遺体を、谷に捨てていたので、「地獄谷」という、 云われ方もあったよう。

病人籠
近接する六合村には、3台用意してあったそうです。病人が出ると、 その籠に入れて、草津に入湯させに、連れてきたそうです。

湯女・おこまちゃんの話
熱の湯には、おこまちゃんという、湯女がいました。彼女は、ネコの真似をして 唄をうたい踊って見せては、湯治客を喜ばせていました。 お客さんから、チップを貰った時は、お礼に雑布を縫って、差し上げたり、 お花を摘んで置いてきたりしたそう。ですから、地元の人からも、湯治客からも、 大変、愛されていたそうです。志賀直哉の「草津入湯記」の『赤い帯』という、 作品にも、彼女が出てくるそうです。
しかし、残念なことに、彼女は、湯川(現在大滝の湯下の川)に身を投げることで、 自分の一生を絶ってしまいました。そこで、湯治客達は協力し合い、彼女の 立派な墓を立てたそうです(現在の役場)。残念なことに、現在の役場の新築の際に、 墓地の移転が行われ、おこまちゃんの墓も、その時点で、わからなくなってしまったようです。

草津講中
湯治のために、積み立てをして草津へ来た、団体のこと。延命地蔵は、この人達が、立ててくれたそう。

江戸娘
湯治に訪れた江戸娘は、珍しく、人気があったようです。 ですから、湯治に来たわけが、そのまま嫁入りしてしまうことも、 少なくなかったようです。

地獄谷
現在の頌徳公園のところには、谷があり、『地獄谷』と、云われていたそうです。 湯治客が、費用が底をつき、貧しくなり、亡くなってしまうことがあったそうで。 すると、身元がわからないと、○○国○○郡の誰々と、照会しても、 「身元で金がかかるから、始末してくれ」と、云われることもあり、 そうすると、その場所に捨てていたそうです。その谷に身を投げてはいけないと、 決まりの文書もあったので、湯治費用が無くなると、自ら死んでいった人も、 いたようです。

終戦直後の草津
戦争中、草津には学童疎開の子どもたちが、3,000人くらい来ていました。 大きな旅館も海軍病院となっていました。終戦を迎えると、学童は帰って行きましたが、 そのまま、草津に居着いた子どもたちも、居たようです。また、旅館も、戦争をきっかけに、 それまでの湯治という形式が、途絶え始め、湯治客も、来なくなってしまったそう。 世の中の経済も変わり、草津温泉は次第に、その地場産業を湯治から、観光へ変貌していったそうです。

日本で最初のリフト
昭和24年、鉱石を採掘していた「白根鉱山」が、硫黄を運び出す為に、天狗山スキー場に、松でやぐらを組、リフトをかけたのが、最初のリフト。今どこにでもあるリフトは、この草津のリフトを基準に作られているそうです。


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